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次世代を担う子どもたちへ

[2020.12.11]

近視や遠視の治療の現場において、小さなお子さんたちと出会う機会はとても多いです。「眼を治すっておもしろそう!」「将来、眼科の先生になってみたいな」とキラキラとした表情で興味津々にお通いいただくお子さんたちも当院には数多くいらっしゃいます。そんなときはいつもスタッフ一同、とても嬉しい気持ちとなり、ますますの精進をみな心に誓うのです。今回はそんな未来を担うお子さんたちに向けた私たちからのささやかなエールとして、日本初の眼科女性医師となった右田アサ先生のお話しをご紹介いたします。 

数々の逆境に打ち勝ち、日本初女性眼科医師となった右田アサ先生の生涯

今でこそ誰でも平等で多様な価値観が当たり前に認められている現代ですが、かつての日本はさまざまな場面においてとても閉鎖的な考え方であることが主流でした。特に女性の社会進出においては男尊女卑の考え方が根深く、女性が男性と肩を並べて勉学に勤しむことすらも偏見や差別を受けるほどのものでした。そんな時代の中にありながらも数々の苦境を乗り越え、眼科女性医師第一号となったのが「右田アサ」という人でした。

右田アサ先生は明治4年、現在の島根県益田市にて生を受けます。幼い頃から聡明で、たぐいまれなる才能にあふれていた彼女は、16歳のときに医師を目指すことを決意し上京します。16歳頃(明治20年)といえばまだ鉄道も黎明期で、東京までの移動の多くは一般的には徒歩に頼らざるを得ず、幼い少女にとっては物理的にも非常に厳しい旅になったことでしょう。上京に必要となる多額の費用を工面することも、当時の彼女の家の財力では困難を極める中で、「医師になる」という夢だけを強く信じて果敢に一人立ち向かったのです。それほどまでに彼女を強く惹きつけたものは西洋医学でした。当時の日本ではまだ西洋医学は珍しく、まがまがしい得体のしれないものと認識されていました。西洋医学の診察を受けたというだけでも好奇の目にさらされてしまう時代であり、女性は離縁されることすらあったようです。それでも自分の思いをひたむきに貫き、志を同じくする良き仲間たちと出会い、さまざまな困難や理不尽な社会と向きあいながらも懸命に学び続けた末、ついに右田アサ先生は女性眼科医師第一号として世間に認められるようになるのです。さらなる高みを目指し、長きに渡り憧れ続けた西洋医学の本場ドイツ留学を目前にした28歳、肺結核を患い無念の末に命を落としてしまいます。生前には女性がもっと胸を張って医学教育を受けられる社会になるようにと、現在の東京女子医大の設立にも尽力したそうです。現代に繋がる女性医師の礎となった一人として、「右田アサ」という名前はこれからも語り継がれるべき存在として知られています。

夢を信じて突き進むことの素晴らしさを
子どもたちにもっと伝え続けてゆくために―

当院にお通いになられているお子さんたちと何気ないお話をさせていただく際にも、一人一人たくさんの夢を持っていることを感じます。今持っている興味や情熱をそのままに、私たちも診療を通じて大切に守り続けてあげたいと切に願います。右田アサ先生も今の子どもたちと同じように、純粋な思いで夢と希望を追い続けた一人です。将来、眼科医や医療の世界に携わってみたいとご興味をお持ちのお子さんがいらっしゃる場合には、ぜひ一度、右田アサ先生にまつわるお話を親子で読んでみてはいかがでしょうか?

お子さんの大切な未来を守るために
眼の異常の早期発見・早期治療はとても大切なことです

視力の異常は、お子さんの将来にも多大なる影響を与えうる問題のひとつとなります。ものの形や色、明るさの違いなどを敏感に感じ取れることは、心身ともに健やかな成長を遂げるためにとても重要なものとなります。お子さんの眼は大人以上にデリケートで複雑な構造をしています。小さなお子さんほど異常の早期発見にはまわりの大人たちによる注意深い見守りが欠かせません。普段の様子を観察して、違和感や不安に感じられることがある場合には、ぜひ一度当院までご相談いただければと思います。

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